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第二話 もう、その手を取れない

last update publish date: 2026-08-15 22:32:08

 まぶたの裏が、やけに明るかった。海原瑠理子(かいばらるりこ)は息を吸い込んだ。

 塩の味がしない。肺を押し潰していた水の重さもない。

 代わりに鼻腔を満たしたのは、洗いたてのリネンの匂いだった。

「……え?」

 目を開けると、見覚えのある天蓋があった。淡いアイボリーの布地に、小さな薔薇の刺繍。

 この天蓋は「子供っぽいから」と外させたはずだ。なのに、これがあるということは――?

 瑠理子は勢いよく上半身を起こした。窓も、カーテンも、壁際の鏡台も、すべて記憶の中にある。

 ただし、十年前の記憶。

 足をもつれさせながら鏡台へ駆け寄る。

 鏡の中に映っていたのは、二十八歳の自分ではなかった。

 頬にはまだ少女らしい丸みがあり、長い髪にも傷みひとつない。なにより、左手の薬指に指輪がなかった。

「うそ……」

 震える手で枕元の携帯を取る。

 表示された日付を見た瞬間、息が止まった。

 四月十六日。

 十年前の、四月十六日。

 十八歳の春。

 忘れるはずがない。

 今日だ。

 両親を事故で亡くした二十一歳の青年が、海原家へやって来る。

 瑠理子が、橘淳と初めて出会った日。

「戻って……きた?」

 呟いた自分の声が、ひどく遠く感じた。

 黒い海。

 冷たい水。

 最後に見た、淳の顔。

 手を伸ばして自分を追ってきた彼の姿まで、鮮明に覚えている。

 夢ではない。あの痛みも、絶望も、本当にあったこと。

 これから起こる十年間の辛い出来事を、瑠理子は恐ろしいほど鮮明に覚えている。

 瑠理子はスマートフォンを握りしめたまま、床へ座り込んだ。

 どうして戻ったのかなど分からない。

 神様の気まぐれでも、悪魔の悪戯でも構わない。

 ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 これは、やり直しができるということだ。

 瑠理子は膝の上で拳を握った。

 ――父を、死なせない。

 ――母を、死なせない。

 ――海原グループを、誰にも奪わせない。

 そしてもうひとつ。これだけは、他のどれよりも難しいと分かっていた。

 ――二度と、あの人を愛さない。

 そのとき、階下から車が停まる音がした。

 瑠理子は顔を上げた。心臓が激しく鳴り始める。

 来た。

 十年前と同じように彼が来た!

 瑠理子は急いで着替え、部屋を飛び出した。階段を駆け下りると、玄関ホールの大理石に、朝の光が長く伸びていた。父が誰かと言葉を交わしている。使用人たちが遠巻きに立っている。その輪の中心に、痩せた青年がいた。

 安物のスーツ。伸びかけた髪。頬に、まだ塞がりきっていない傷。とても美しい青年だった。

 橘淳(たちばなじゅん)、二十一歳。

 淳――声にならない声が、瑠理子の喉の奥で零れた。

 若かりし頃の彼の姿を見て、胸が苦しいほど締めつけられた。

 この人は、やがて海原家を壊す男。

 それなのに目の前にいる二十一歳の淳を見た瞬間、会いたかったと思ってしまった。

(……違う)

 瑠理子は咄嗟にその気持ちを打ち消した。

 会いたかったなんて、そんなはずがない。

 この男から逃れるために、もう一度ここへ戻ってきたのに。

 淳がこちらに気づいた。

 そして、ゆっくりと膝をつく。

 その仕草を、瑠理子は前世の時から知っている。

 思えば、瑠理子が彼に恋をした瞬間だった。

「お嬢様」

 淳は瑠理子を見上げた。「今日からあなたにお仕えします。橘淳と申します」

 そう言って、前世と同じように手を差し出された。

『よろしくね、淳』

 十八歳だった瑠理子は、その手を取った。

 こんなに綺麗な人が家へ来るのだと胸を躍らせて、少し照れながら笑った。

 その手を握ったことから恋が始まった。

 父の反対を押し切り、御堂直之との縁談まで断って、瑠理子は愛した淳と結婚した。

 そして父を失い、母を失い、海原グループを奪われた。

 彼は海原グループを恨んでいた。だからすべてを壊しに来たのだと気が付いた時にはもう遅かった。

 全て、この手を取ったところから始まった。

「瑠理子?」

 父、一郎(いちろう)の声が遠く聞こえる。

「淳君に挨拶をしなさい」

 瑠理子は差し出された手を見つめた。

 大きな手。淳の指先にはいくつもの傷がある。

 十年間、この手に何度も触れた。

 手をつないだ。

 抱きしめられた。

 初めて女性として愛してもらった。

 結婚指輪を嵌めてもらった。

 そして最後には――この手から逃れた。

 

 まだ今の淳は、何もしていない。

 まだ何ひとつ、瑠理子から奪っていない。

 それでも――

(今世では、この手を取らなくてもいいよね?)

 瑠理子は伸ばしかけた自分の手をそっと引いた。

 前世では、迷うことなく握った手。幸せになれると信じて、離さなかった手。

 けれど今度は、もうその手を取ることはできなかった。

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